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光明(こうみょう)

 『当尾の里(とうおのさと)』に初めて足を運んだのは、私がまだ20代半ばだった頃。京都と奈良の県境に位置し、山に囲まれたその古い集落は、点在する巨大な石仏で知られていた。
 何がきっかけだったのか忘れてしまったが、当時私は、写真に興味を持っていた。奈良市写真美術館が主催する2日間の初心者向け写真教室に一人で参加し、実技講習という形で彼の地へ赴いたのだった。


 近鉄奈良駅からバスに揺られること約30分、山に挟まれるようにして建っている岩船寺(がんせんじ)に到着。そこから3キロほど離れた浄瑠璃寺(じょうるりじ)までの道のりを、受講者たちは各々カメラを手に、講師の先生の後について歩いた。
 初夏のよく晴れた日で、眩しい新緑に彩られた里山は美しく、子供の頃同じような景色の中で育った私は、懐かしく心和む思いだった。道は田んぼの脇や細い切り通しを抜け、どこまでも緑の中を進んで行く。

 巨岩に彫られた『わらい仏』の優しい微笑みに癒され、次の見所である『カラスの壷二尊』と呼ばれる仏様の前まで来た時のことである。先生は道ばたの草むらに咲いていたアカツメクサに、持っていた霧吹きで水をかけて言った。
「朝露に濡れた瑞々しさを表現するためのテクニックです」

 細かな水滴がついたピンクの花と緑の葉をアップで撮ると、なるほど朝でもないのに清々しい早朝の雰囲気がある。

(これがプロの手法というものか)

 と思いながらも、私は『嘘を撮る』気がしてどうにも落ち着かなかった。先生は続けて、

「こういう邪魔な物は取っちゃって下さい」

 と言うと、花のそばに生えていた雑草を引っこ抜いて投げ捨てた。その物馴れた手つきを見て、私はなぜか呆然としてしまった。
 20年が経った今はそれも記憶の彼方、細かなことはほとんど覚えていない。けれど、あの時の動揺、居心地の悪さは、思い出すたびはっきりと蘇ってくる。


 『当尾の里』は古来、世俗にまみれた奈良仏教を嫌う僧侶達の隠遁(いんとん)の地だったという。彼らが自らの修行と布教を志し、念仏の心を刻み込んで作った磨崖仏(まがいぶつ)は、道行く人を見守る道しるべとして親しまれ、長い間大切に守られて来た。

 庶民が気軽な観光を楽しめるこの平和な世にあって、あるがままを受け入れる感謝の気持ちも、祈りの心も持たず、ただ写真を撮る私達を、仏様はどう見ておられるのだろうかと、私はそれが恥ずかしかったのだと思う。
 久しぶりにまた、彼の地を訪れたくなった。秋の風情の中、あの仏達の静かな光明に浸されに行きたい。

 

- fin -

2013.11

『動かないもの』をテーマに書いたエッセイです。

 

【用語解説】


・光明(こうみょう) :仏、菩薩(ぼさつ)の心身から発する光。慈悲や智慧(ちえ)を象徴する。


・磨崖仏(まがいぶつ):自然の懸崖(けんがい)または大石に仏像を彫刻したもの。

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