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 去年の12月に良枝が風邪を引いたとき、40年連れ添った夫はこう言った。
「普段から体を鍛えてへんからや。情けない。俺なんか仕事で気ぃ張ってるし、ここ20年以上、寝込んだこともないわ」

腹の立つ物言いだが、確かにその通りだった。
 良枝たち夫婦は、東大阪の小さな町工場を切り盛りし、息つく暇もなく3人の子供を育て上げた。上の娘2人を相次いで嫁に出したのは5年前。末の息子は専門学校を出て企業で働いていたが、3年前に家業を継ぐと言って、お嫁さんを連れて帰って来てくれた。おかげで良枝は気楽な隠居生活を送っている。しかし夫は「腕がなまる」と、今も現役を続けているのだ。
 興奮すると頭も口もうまく回らなくなる質(たち)の良枝は、口喧嘩で夫に勝てた試しがない。まして風邪のせいで弱っていたそのときは、口答えする気力もなかった。
 しかし、である。
この2月、夫がインフルエンザに罹(かか)った。良枝は内心ザマアミロという気分だった。が、高熱で苦しむ夫が「もう歳かな」とつぶやくのを聞き、怒りは穴のあいた風船のようにしぼんでしまった。


「良枝ちゃん。さっきから上の空やねぇ。やっぱり何やかんや言(ゆ)うて、旦那さんのこと心配なんやろ」
「えっ……いややわ、そんなわけないやん」
我に返った良枝は、幼なじみの民子に照れたような笑顔を見せた。
「ホラ、次のとこ、もう皆(みんな)行ったはるし。付いて行かな」

民子が先に立って歩いて行く。
 良枝と民子は私鉄で一駅ほど離れた場所に住んでいて、月に一度は連れ立って出かけている。今日は、京都の郊外にある大手酒造メーカーの工場に来ていた。ウイスキーの製造工程の見学や試飲が無料でできるとあって、平日なのに10数名ほどの人が集まっている。
 ガイドに連れられ進んだ貯蔵庫は薄暗く、大きな樽がいくつも並んでいた。
「1924年(大正13年)に仕込まれた第1号から始まって、歴代の樽がここに並んでいます。皆さんの生まれ年の樽もあるか、どうぞ探してみて下さい」との声を合図に、人々は樽の蓋に書かれた文字を見ながら歩き出した。民子と良枝は同い年で1951年生まれである。

「あったあった。うちらの、これや」
はしゃぐ民子を尻目に、良枝は夫の生まれ年、1950年の樽を見つめていた。
「予約、没にしたらもったいないやろ。もう熱も引いたし行ってこいや」

そう言って送り出してくれた夫の顔を思い出す。一緒に経て来た年月が、皺となって刻まれている顔を。
(私たち夫婦も、これから熟成していくのかも知れへんなぁ)

良枝はお土産にしようと、夫の好きなウィスキーを手に取った。

 

- fin -

2014.02

『主人公が生まれた年に作られた飲み物』をテーマに書いたフィクションです。

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