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癒しの窓

 私が4歳から19歳まで暮らした家は、京都府南部の、小さな田舎町の郊外にあった。そこは文字通りの〝町外れ〟で、本当に辺鄙な所だった。何しろ、私が中学3年生になるまで、私の家より先には人家がなかったのだ。
 集落から延びる道は我が家の前を通り、緩やかな勾配を持つ広々とした田畑の間を、1キロ半ほど続く。そして大阪との県境である山に突き当たり、頂上へと至る山道に変わって、行き止まりになっていた。
 子供でも小一時間で楽に登れる、標高217mのその山が、町の最高峰だった。小学校の校歌の一番が、「甘南備山(かんなびやま)の雲若く」で始まっていたこと、それを歌う時にいつも胸をよぎった、微かな誇らしさ……卒業して40年近く経った今も、懐かしく思い出す。山頂には神を祀る神社が建ち、中腹には水晶の採れる谷があった。小学生の頃、自転車で通っては集めた水晶を、箱に入れて宝物にしていた。中には、無色透明で先の尖った六角柱をしたものもあり、太陽にかざすと、プリズムの七色の光が壁に映った。


 中学2年生の時、父が家を新築し、私は2階に自分の部屋をもらった。窓からは、四季折々に趣のある、甘南備山の姿が見えた。

 それから6年間、思春期と呼ばれる時期を、私は山に見守られて育った気がする。
 両親の夫婦仲が次第に悪くなり、家の中に寒々とした空気が流れていたその時期、私は部屋にこもることが多かった。ぼんやりと物思いにふける私の視線は、たいてい、窓の外に向けられていた。無意識に、鬱屈した気分に風を通し、山の景色に慰めを求めていたのかも知れない。
 山には、楽しかった頃の家族の思い出が詰まっていた。特に春は、よくみんなで山菜採りに出かけた。うららかに晴れた一日を選んで、母がおにぎりを作り、父が運転する軽トラックの荷台に、私たち兄弟3人が乗った。ワラビやゼンマイは、食べるのは好きではなかったが、摘むのは面白い。何より、春の日差しを一杯に浴びた、のどかな里山の風情が私は好きだった。そこで過ごした家族との穏やかな時間は、幼い私の心に、暖かな何かを満たしてくれた。
 窓から山を眺めるたびに、思い出の中の温もりを少しずつ取り出して、私は自分を暖めていたのだろうか。


 事情があってその家は、借金の形(かた)として人手に渡った。何年も経ってから、郷愁に駆られ集落を訪れてみて、私は驚いた。新しく出来た高速道路が視界を横切り、山を望む方角の様相を一変させていたからだ。
 私は引っ越しを繰り返し、合わせて11ヶ所を転々とした。けれども、私が愛したあの窓からの山の姿より美しい、心和む景色を見せてくれる窓には、まだ巡り会っていない。

 

- fin -

2015.03

『年齢を重ねた今の自分が、最も美しいと思うもの』をテーマに書いたエッセイです。

 

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