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恐れ畏(かしこ)む存在

 春日大社(かすがたいしゃ)の参道を、私たちは白い息を吐きながら、急いで登っていた。
 十二月の真夜中である。灯りは一切ない。両側に鬱蒼と茂る木々の影は真の闇。うっかり溝に嵌ったり、立ち並ぶ石灯籠や倒木に、足を取られては大変だ。しかし広い参道の中央は、天空に満ちる仄かな光に照らされ、ぼんやりと浮き上がって見える。
 やがて行く手に、赤い光が現れた。どうやら火が焚かれているらしい。目当ての神事が既に始まっている、と焦った私たちの足は、思わず小走りになった。
 その時だ。突然、木下闇(このしたやみ)から飛び出した人影が、両手を広げて私たちの前に立ちふさがった。勢いづいていた私は、その人の腕に抱き止められ、そのまま道の脇へと連れて行かれた。そうして初めて「遠くにある大きな焚き火」だと錯覚していた光が、「すぐ近くにある松明(たいまつ)の火」だと気づいたのだ。周りには私たちと同様、神事を見物しようとする人々が大勢集まっていたが、誰も一言もしゃべらないため、静まり返っている。
 凝縮された闇と静寂の中、道の両端を2人の神官が、ゆっくりとやって来る。「ゾロリ、ゾロリ」と音を立てるのは、神官らがそれぞれ引きずっている、長さ2mほどの丸太のような大松明(おおたいまつ)だ。後ろにもう一人ずついる神官が、棒の先で時々「ポン、ポン」と松明の先をたたいて火の粉を散らす。しばらく消えずに光っている火の粉は、道の両側に赤い光のラインを残していく。それは俗界と神の領域とを区切る境界線、闇に浮かぶ「神の道」だ。
 その作られたばかりの、まだ神様がお渡りになってもいない「神の道」に、私たちは飛び込んでしまうところだったのである。
 今度は何やら恐ろしげな音が響いてきた。この世のものとも思えない異様な声だ。これが映画なら、不気味な怪物が登場する前触れのようだ。いや、古人(いにしえびと)にとっては、神も怪物も、等しく畏怖の対象だった。〝若宮〟とは祟(たた)り神である、との説もある。この、古都奈良を彩る冬の風物史、「春日若宮(かすがわかみや)おん祭り」の始まりも、疫病という形で世に現れた、祟(たた)り神を鎮める目的だったというではないか。
 やがて、手に手に榊(さかき)の枝を掲げ持った、50人ほどの白装束の人々が、みっしりと寄り集まって歩いてきた。彼ら全員が口々に「オー」とも「アー」ともつかない、何とも言えない声を、間断なく発しているのだった。
「とんでもない罰当たりを仕出かすところだった」という戦(おのの)きから、覚めやらぬままだったからか。「畏れるべき存在」に、私の何かが感応したのか。彼らが目と鼻の先を通り過ぎた瞬間、ザッと全身に鳥肌が立った。 

 これはもう20年以上昔、奈良を地元とする女友達に誘われ、おん祭りの「遷幸ノ儀(せんこうのぎ)」と呼ばれる神事を見に行った時の顛末である

 

- fin -

2017.01

『初めての体験』をテーマに書いたエッセイです。

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