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 「うわっ、何あれ? 不気味〜」
 恭子がうわずった声を上げた。しかし雅美は、知っていたのだろう。彼女の歩調は淡々として、行く手に広がる異様な光景にも、ひるむ様子はなかった。
 太平洋に面した小さな漁港にある、和歌山市加太の淡島神社。磯の香りとセミの声を全身に浴びながら、参道を右に曲がると、朱塗りの拝殿が見える。だが建物の存在感など、無きに等しい。拝殿の中と外をぎっしりと埋め尽くす、おびただしい数の人形たちに、否応なく注意を引きつけられるからだ。
 雛人形や市松人形、花嫁人形。木彫りや剥製の、様々な動物の置き物。ダルマに招き猫……。ありとあらゆる種類の人形たちが、命の抜け殻のように累々とひしめき合っている。まばたきもせず見つめてくる目、目、目……。重なる視線の、あまりの濃密さに息が詰まる。 
 8月の強烈な陽射しの下だというのに、恭子は肩をすくめ、薄いカーディガンの前を合わせた。
 雅美は、ゆっくりと境内を歩き回っている。仕立ての良い紺の麻の上着と、青いプリーツスカート。その背中に向かって、恭子は呼びかけた。
「ねぇ、もう出ようよ。あんた、なんでこんな所に来たかったの?」
 雅美は振り向かない。恭子はしかたなく後を追った。ジーンズの足下のサンダルが、石畳の上で乾いた音を立てる。恭子が隣に並ぶと、雅美は人形たちに目をやったまま言った。
「可哀想だと思わない? この人形たち。奉納されたって言っても、結局は、捨てられたのよ。新しくて綺麗な間だけ可愛がられて、いらなくなったら捨てられる。どんな気持ちでしょうね」
「気持ちって……何言ってんの。ただの人形でしょ。ちょっと、雅美?」
 突然、顔を覆って泣き出した彼女に、恭子は驚いた。

 「小旅行につきあってくれない?」と言う雅美の誘いに、詳しいことも聞かず恭子が応じたのは、彼女がもう二十年来の友人で、気兼ねいらずの仲だったからだ。それにちょうど恭子も、少し“日常”から離れたいと思っていたところだった。
 二人は共に東京の三鷹で育ち、中学と高校で同級生だった。その頃はさほど親しくもなかったが、別々の大学に入学し、恭子が大学を中退して大阪に移った後も、年賀状のやりとりだけは続いていた。急速に親しくなったのは、3年前、雅美が夫の転勤で神戸にやって来てからだ。
 しかし専業主婦の雅美と違って、33歳で未だ独身OLの恭子は、何かと忙しい。一緒に旅をするのはこれが初めてだった。

「それで? いったい、どうしたのよ」
 雅美のグラスにビールを注ぎながら、恭子は尋ねた。

 とりあえず旅館に落ち着き、温泉で汗を流したところだ。卓上には鱧(はも)や海老など、新鮮な魚介類を使った海辺らしい料理が並んでいる。
 雅美は腫れた目を伏せ、鮑(あわび)の造りをつついた。
「離婚してくれって言われたの。不倫相手の女と、結婚したいんだって」
 初めて聞いた話だったが、恭子は驚かなかった。雅美の夫はモテるタイプだと、常々思っていたのだ。35歳の若さでペンチャー企業の重役に就き、経済力も申し分ないとくればなおさらだろう。
 夫への恨みごとを延々と聞かされるうち、恭子はうんざりしてきた。今までも、雅美の愚痴には散々付き合わされてきた。それも彼女の話の内容のほとんどは、恭子にとって不満でも何でもないと思えるようなことばかりだった。
 もともと雅美は、恭子から見れば随分と裕福な家庭に生まれ、学生時代から付き合っていた今の夫と、卒業と同時に結婚した。いわゆる“世間の荒波”というものに、ほとんど晒されたことがない。
 さすがに今回は、夫に不倫されたあげく離婚を迫られているとあっては同情も感じるが、こうも愚痴を聞かされては、彼女の夫の気持ちがわかるとさえ思ってしまう。
「ちょっと、飲み過ぎじゃない? 日本酒は飲めないって言ってたくせに」
 雅美が手酌で杯を進めるピッチに、恭子は不安を覚えて止めようとした。
「放っといてよ!」
「あっそ。じゃあ好きにすれば」
「何よ、その冷たい言い方!」
 恭子を睨む雅美の目に、再び涙が盛り上がってきた。
「だって仕方ないでしょ、あんたが自分で飲みたいって言うんだから」
「友達甲斐が無いわね!」
 激高する雅美とは逆に、恭子は冷めていく自分を感じ、薄笑いを浮かべた。自己憐憫の感傷旅行に付き合わされたなんて、ぞっとする。こっちの身にもなってもらいたい。
「なぐさめて欲しいなら、誘う相手を間違えたわね。あんたも知ってるでしょ。私は不倫経験者、しかも現在進行形よ」
「……だからよ。私は今まで、聞いたことなかったわ、あなたがどんなつもりで不倫してるかなんて。でも本当はずっと、不快に思ってた」
 思わず恭子は笑ってしまった。自分たちは今まで、当たり障りのない会話で友人ごっこをしていただけなのだ。心の底に凝(こご)っていた黒い澱(おり)のような憎しみが、感情をかき回されることで表面に浮かび上がって来るのを、恭子は感じた。
「別に。どんなつもりもこんなつもりもないわ。好きになった人に、すでに奥さんがいた、それだけよ。普通の恋愛と変わらないと思うけど」
 本当はそんな風には思っていない。けれど恭子はどうしても、結婚に結びつくような恋愛に、本気になれなかった。
 恭子の父親は女癖が悪く、物心ついたときから両親は不仲だった。しかし子供の頃はその理由がわからず、いつもイライラしていた母より、恭子は優しい父になついていたのだ。16歳の時に両親は離婚し、その時初めて、母の気持ちを理解した。父への思慕は、翻って激しい憎しみに代わった。以来、母から父への恨みつらみを聞かされるたびに、自分の中に流れる父の血を意識し、体の半分をちぎって捨ててしまいたい気分になったものだ。
 本気で求めて、拒絶されることが怖い。そして今目の前にいる雅美のように、失う日が来ることも。
「変わらないわけないでしょう? 相手の妻や子供が悲しい思いをするんだから!」
 ムキになって反論してくる雅美をいなすように、恭子はわざと軽い調子で応えた。
「そーお? あんたが彼とくっついたことで、彼を想ってた誰かが悲しい思いをしたかも知れない、だったら同じじゃない?」
 一瞬、黙り込んだ雅美の顔に、不穏な影が差す。彼女の声がふいに低くなった。
「あなたみたいな女がいるから……」
 雅美は立ち上がり、恭子を睨んだままテーブルを回ってきた。
 ヤバい。目が本気だ。
 恭子は身の危険を感じ、自分も立ち上がって叫んだ。
「あんたの夫を奪ったのは私じゃないわよ!」
「おんなじよっ、この、ドロボウネコ!」
「わっ! 何すんのよっ!」
 首を絞めようと飛びかかってきた雅美の手を払い、恭子は斜め後ろに飛び下がった。その拍子に、床の間の柱に、派手な音を立ててぶつかる。
「痛い! やめてよ!」
 なおも掴みかかろうとする雅美をかわしながら、恭子は逃げ回った。
「お客様? どうかなさいましたか?」
 ノックとともに、扉の外で声がした。動きを止めた雅美を押しのけ、恭子は慌てて乱れた浴衣の裾を直しながら返事をした。
「何でもありません」
 不審そうに中をうかがう気配を感じ、細く扉を開けて愛想笑いをする。
「ダンスの練習をしてたんです。お騒がせして、すみませんでした」
「はあ……そうですか」
 去って行く客室係の背中を見送って、部屋を振り返ってみると、雅美は畳の上で大の字になって眠っていた。
「いい加減にしてよね、全く!」
 夜中に目を覚ました雅美に、今度こそ殺されるかも知れない。そう思うと恐ろしくて、恭子は寝る気がしなかった。旅館の人に別の部屋を頼もうかとも思ったが、事情を話すわけにもいかない。
 結局、恭子はほとんど眠れなかった。朝になったら、一人でさっさと帰ってしまおう。そう思っていたのに、明け方、いつの間にかウトウトしたらしい。目が覚めると、雅美はすでに起きていた。そして、洗面台につっぷして吐いていた。

「ホラ、着いたわよ。鍵は?」
「この中。内ポケット」
 うつむいて突っ立っている雅美の鞄を、恭子はひったくるようにして受け取った。二日酔いでグロッキー状態の彼女を放っておけず、しかたなく家まで送ってきたところだ。
 高台に建つ、瀟洒なマンション。各部屋の玄関の広さからして、恭子が住む大阪の公団住宅とは違う。雅美を引きずるようにして中に入れ、恭子は言った。
「じゃあ、私帰るね」
(あんたとはこれっきり。もう2度と会うこともないわね、さようなら)
 そう思いながら、外に出ようとした時。廊下の奥から、女の子が顔をのぞかせた。ここに遊びに来た時に何度か会って知っている、雅美の娘だ。確か今年、10歳になると聞いていた。
「あれ? 雅美、美香ちゃんいるよ。実家にあずけたとか言ってなかった?……キャー!どうしたの、それ!」
 少女の白いTシャツに、点々と血が滴っている。胸の前で押さえた手も血まみれだった。呆然としている雅美より先に、恭子は靴を脱ぎ捨てて美香に走り寄り、彼女の手を取った。左手の人差し指に切り傷がある。けれど幸い、深くはなかった。
「とにかく手を洗って、……絆創膏は?」
 恭子は美香の手を掴んだまま、開いていた扉の中に入った。20畳はありそうなリビングと、対面式のキッチン。調理台の上には、みじん切りの途中のタマネギが乗っている。
「何か作ろうと思ったの? お腹すいた?」
 そう言って美香の顔をのぞき込んで、恭子は気づいた。
 美香は自分を見ていない。
 黙って後ろからついてきた雅美を、心配そうにじっと見つめている。
「……ママが、帰ったら食べるかなと思って。オムライス」
 恭子も知っている。オムライスは雅美の好物だった。
 背後にいる雅美が、声を立てずに泣き出したのを感じ、恭子は美香の手を離した。そして、近づいてきた雅美に場所を譲る。雅美は美香のそばにひざまずき、娘を抱きしめた。
「ごめん……ごめんね。美香も不安だったよね。それなのにママ一人で旅行なんか行って……ホントにごめんね」
 そっとリビングを出て、玄関へと向かう恭子の耳に、びっくりするほど大きな美香の泣き声が響いてきた。

 雅美の部屋から出て玄関ドアにもたれ、恭子はうつむいた。
「あーあ。もらい泣きなんか、柄じゃないのに。マスカラが落ちちゃったじゃない」
 頬を濡らす涙を手でぬぐい、自分をののしる。 
 雅美が失くしたと思っているものは、形を変えてあの子の中に生き続けている。ふと、そんな考えが心をよぎった。
 だったら……喪失をただ嘆くのはやめて、周りを見渡してみればいい。きっと、代わりの何かが見つかるはずだ。
 恭子は顔を上げて背筋を伸ばした。眼下には神戸の街並みが広がり、良く晴れた空の下、遠くに神戸港の白い船舶が見える。
 風が髪をなびかせ、サルスベリの花を揺らした。気のせいか、潮の香りがする。この青い空と海は、昨日見た和歌山にもつながっている、と恭子は思った。
 淡島神社など全国各地で行なわれる雛流しは、子供の無病息災を祈る神事だという。ならば捨てられたあの人形たちにも、ちゃんと役目はあるのだ。恭子は神社に飾られていた写真を思い浮べた。白木の船に乗せられた人形たちが、大海原へと進んで行く姿。
 人間の“想い”によって人形たちに吹き込まれた魂は、海に流された後、実体を離れて宙に漂うのかも知れない。そして、満たされなかった心を埋めるため、新たな絆を求めて、いつか人間に生まれ変わる。
 そんな、寂しい魂が一つ、自分の中に宿っているのだとしたら……。
「う〜んと可愛がってあげなくちゃ、ね……」

 一ヶ月後。恭子は差し出された灰皿を、手を振って断った。
「タバコやめたの。お腹の子に悪いから」
 雅美は一瞬、絶句した。
「子供? もしかして……」
「そうよ、不倫相手の子。だけど彼とは別れたわ。二度と会うつもりはないし、子供のことも知らせてない」
「そんな……一人で産んで育てる気?」
「大変なのはわかってる。でも決めたの」
 揺るぎない口調に、雅美は何も言えずに恭子の顔を見つめた。どこか誇らしげな彼女に眩しさを感じ、手に持ったティーカップに視線を落とす。
「それで、予定日は?」
「3月の終わり」
「そう……」
 雅美は目を上げ、ゆっくりと微笑んだ。
「恭子、きっといい母親になるわ。私、気づいてたわよ。あなた子供が好きでしょう。学生の頃から、小さい子を見ると頬が緩んでたもんね」
「何それ。変なこと覚えてるなぁ」
 二人はどちらからともなく、笑い出した。
「……それに見かけによらず、面倒見がいいし」
「見かけによらずって……ひどいわね」
「ごめんごめん、褒めたつもり。……この前は本当に、いろいろありがとう。それと……ごめんなさい」
「お礼を言うのはこっち。あの日のことがなかったら、この子、堕ろしてたかも知れない」
 恭子は照れくさそうに笑った。
「ね、また行こうよ、淡島神社。今度は美香ちゃんも一緒に。私、雛流しが見たいわ」
 雅美がびっくりして目を丸くした。
「3月3日は無理よ! あなた臨月でしょう?」
「あっそうか。じゃ、和歌山で産もうかな」
「もう、何言ってるの」
 二人の笑い声が重なり、明るいリビングに響いた。

 9月とは言え陽射しはまだ真夏のそれだ。けれど空は高く澄み、巡り来る次の季節を予感させていた。
 

- fin -

2009.07 初稿

2017.01 改稿

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