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あこがれ

 皆さんは私をご存知だろうか。

 私はカスパー・ハウザー、誰でもない者。16歳の少年の身体と、幼児の心を持ち、父も母も知らぬまま、この世に忽然と現れた謎の存在。


 19世紀初頭、ニュルンベルクの街中で、何者かに置き去りにされた時、私はまるで獣か白痴のように、全く言葉を理解しなかった。変形した膝と、発達不全の筋肉のため、普通に歩く事もできず、地下牢の暗闇に慣れ切った目には、昼の光が眩しくてたまらなかった。
 人々に保護され、好奇の目に晒されながらも、私は徐々に、それまで押しとどめられていた人間としての成長を遂げて行った。決して生まれつき知能が劣っていた訳ではない。その証拠に、3ヶ月もすると、子供のようにたどたどしくはあったが、どうにか話をし、読み書きもできるようになった。
 しかしそれでも私は、自らの出生について語る事はできなかった。誰が、何のために、16年もの長きに渡って私を監禁し、独りぼっちで、水とパンだけを与えて生きながらえさせたのか。そしてなぜ突然、放り出したのか。全ては謎のままだった。


 皆さんは、自分が何者であるかを知らずに生きていく、それがどのような事かわかるだろうか? 片親を、あるいは両親を知らぬ人なら、少しは理解できるかもしれない。しかし、16になっていきなり、この世界を丸ごと与えられた者の気持ちは? おそらく誰にもわかりはしない。

 私の周りは、見知らぬ物と見知らぬ景色でいっぱいだった。

 私は長い間、物の遠近を見分けられなかった。窓の外の花壇は、閉まった鎧戸の上に描かれた、緑や赤や黄色の、醜いまだら模様に見えた。

 ある時、食卓に置かれた白い棒の上に、キラキラと明るく輝く光が見え、私は嬉しくなって手を伸ばした。するとそれは私に噛み付いた。痛みより恐怖と驚きのため、私は泣きわめいた。


 ああ、皆さんはなぜ、私に知恵を与えたのか。どんなに求めても決して自分のものにはならない夢を、あこがれを、なぜ私の心に植え付けたのか。

 何も知らず、暗い穴の底で半分眠ったように生きる事は、幸せとは言えないまでも、不幸ではなかった。満足、不満足という概念すらなかったのだから。

 しかし今、私の心にあって私を激しく責め苛むのは、与えられなかったものへの切望なのだ。家族との思い出、両親から受けるはずだった愛情、人間らしい子供時代。永遠に私の腕からすり抜け、二度とは帰って来ない失われた時間。自分の過去に横たわる膨大な空白を、その埋めようのなさを思う時、私は静かに絶望する。


 今、目の前で、一本の蠟燭(ろうそく)が燃えている。けれど私はもう、輝く美しい光に、手を伸ばそうとは思わない。

 私は知ってしまった。それは激しく私を惹き付け、同時に、私を殺すものであると。まるで、私の胸を切なく焦がし、それ故に絶望へと追いやる、「普通である事」へのあこがれのように。

 

- fin -

2013.01

『蝋燭の火を演出効果として活かす』をテーマに書いたフィクションです。

 

【参考文献】

小説
『カスパー・ハウザーは語る』(白水社『ナイフ投げ師』収録)
 著者:スティーブン・ミルハウザー

エッセイ
『墜落した少年』(新潮文庫『青いサーカステントの夜』収録)
 著者:楠田枝里子

ドキュメンタリー
『カスパー・ハウザー』(福武文庫)
 著者:A・V・フォイエルバッハ

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